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平成24(2012)年12月10日制作


東日本大震災被災地めぐり

平成23(2011)年3月11日の東日本大震災から1年7か月たった平成24(2012)年秋、宮城県と岩手県の被災地に行きました。
よそ者がカメラを片手に今なお復興していない大震災の被災地を見て回ることについては自分自身にかなりの抵抗感があり、また後ろめたさもつきまといました。
しかし首都圏で見たJRの電車の中吊り広告で【被災地に行くのも支えになるのです】というフレーズに押されて勇気を出して宮城県北部と岩手県の被災地を見て回りました。
宮城県気仙沼市から北上し岩手県内の陸前高田市、大船渡市、釜石市、山田町、宮古市田老までの国道45号線沿いの海岸約140KMです。
 


宮城県気仙沼市

一関市から気仙沼市に入ると海沿いの土地はコンクリートの建物以外は土台だけのところばかりでした。
気仙沼湾の一番奥にあった観光船乗り場は浮桟橋とつながっていた歩道橋が半分海中に沈み観光客の待合所だった『エースポート』は内部が壊滅状態でした。
   
 気仙沼市中心部 気仙沼湾
テレビなどではもうほとんど語られませんが現地の空気は今なお異様な臭気に包まれていました。
ヘドロの強烈な臭いと魚の腐ったような臭いが入りまじり最初はとても耐えられませんでした。
瓦礫だけは撤去されていましたが震災当時は腐敗臭もあってもっともっと強烈な臭いがしていたそうです。


大型漁船陸に上がる!!

写真は気仙沼市鹿折(しかおり)地区の民家の敷地に打ち上げられた大型巻き網漁船【第18共徳丸】330トンです。海岸線から実に600メートルも陸に入った場所です。ここには民家があったそうですが家屋が流された跡に船が流れ着いたということです。
所有者は福島県いわき市の漁業会社で当初撤去の意向でしたが気仙沼市は、共徳丸を含めた復興祈念公園構想を掲げ、津波の記憶を伝える施設として船の保存に積極的な姿勢を示しています。
地元民も撤去派とモニュメント派の意見が対立し結論が出ていません。
 
 第18共徳丸・電柱は被災後建てられました

   
 警告文  供物に見入る人
ここにきて3.11の爪痕を刻む建物や風景などを『震災遺構』として保存すべきかどうかの議論が気仙沼市だけでなく被災地のあちこちで起きています。
過去の大震災では津波の教訓が生かされなかった場合が多かったので今度こそ【現物】を積極的に保存し、来るべき脅威を伝えるべきだとの意見が高まっていると聞いています。
 
 漁船が流れ着いた隣の敷地でも犠牲者があり毎日花が絶えません


岩手県陸前高田市

長さ1キロメートルの砂浜に7万本の松が茂っていた景勝地高田松原は、ただ1本津波に流されずに残った【奇跡の一本松】で有名になりました。
地元では何とか枯死させまいと懸命な努力が続けられました。
しかし根が塩分を含んだ海水につかっておりこのままではやがて葉や枝が落ち最終的には倒れる危険があると指摘されました。
この松は樹齢260年、高さ30メートル、直径が80センチありました。
9月12日根元から伐採され今モニュメントとして再建すべく岩手県外で保存加工が行われています。
   
一本松は【道の駅高田松原】の南200Mにあった 在りし日の【奇跡の一本松】=産経HPより借用


岩手県釜石市

鉄の街・釜石はホテルの少ない町です。私たちの泊まったホテルサンルート釜石は津波で2階の天井まで浸水しましたがいち早く復旧し営業を再開しました。宿泊料の料金設定はこのクラスのホテルとしてはとても高価でしたが復興に協力する意味もあって納得しました。
家屋が流出した地域は地盤のかさ上げをしないと建築許可が下りません。しかし国土交通省は未だにかさ上げの基準と補助金の額を示さないため市民は困り果てています。
   
いち早く再開したホテルサンルート釜石 木造家屋の建て直しは手つがず


釜石の奇跡

この大震災で宮城県石巻市立大川小学校では全児童108人のうち7割にあたる74人が犠牲になった一方で岩手県釜石市では小・中学生2921人が津波から逃れることができました。
生存率99.8%は【釜石の奇跡】といわれ世界中に発信されました。
釜石市教委は8年前から群馬大学の片田敏孝教授(災害社会工学)の指導を受け教師や児童生徒の災害時の意識改革に努力してきました。
『想定にとらわれず自分の命は自分で守れ』これが片田教授の教えの根本です。
3月11日釜石東中学の生徒たちは地震直後「津波が来るぞ!」と叫びながら避難場所へと走りました。
この中学校は市のはずれにありハザードマップでは『想定外』でした。隣接する鵜住居(うのすまい)小学校では児童たちが、逃げる中学生を見て後を追いさらに高台へ急いだその直後津波が足元まで迫り間一髪で全員が助かりました。
   
釜石東中と鵜住居小は撤去されました 津波到達時刻を示す掛け時計


宮古市田老(たろう)の防潮堤

岩手県宮古市の北はずれにある田老地区(旧田老町)。ここは明治29(1896)年の明治三陸沖地震と昭和8(1933)年の三陸沖地震津波で壊滅的被害を受けその後45年をかけ世界で最も大きくて頑丈とされた防潮堤を作りました。
長さは2,600メートル、高さ10メートルどんな津波が来ても大丈夫だという町自慢の防潮堤でした。
日本にある【万里の長城】とまで言われて国内外から絶賛され見学者も絶えませんでした。
   
誰もが安心した巨大構造物


防潮堤は中央部分がX型で二列になっており津波対策では万全とされていましたが3.11の大津波は海側の防潮堤を破壊し他のすべての堤防を乗り越えた海水が堤防両側にあった田老の街並みを全壊させました。
 
海側の堤防樋門の跡が残るのみで、漁船も海岸線から500メートルも移動し津波のものすごい破壊力を見せつけています。
 
内側の防潮堤は原形を保っていますが両側の建物はほぼすべて流出しコンクリートのホテルなどが無残な姿でやっと残っています。
田老地区は有史以来何度も津波にのまれたという苦い教訓を胸に【防災の町】を宣言して安全なまちづくりを進めていたにもかかわらず東日本大震災は想定外の破壊をもたらしました。
今回の被災地めぐりは『想定にとらわれず自分の命は自分で守れ』という群馬大学の片田教授の教えが胸に迫りました。
死者・行方不明者18,618人=平成24(2012)年11月28日現在=のご冥福を心よりお祈りいたします。


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